あの日から数日後。 森に住む人間の少女__ムルアは、鼻歌を歌いながら家の少し下にある沢の際でしゃがんでいた。 汚れた衣服を籠から取り出して、水でぱしゃぱしゃと音を立てながら洗う。 朝の陽光に照らされて水面が煌めく。 鳥たちの鳴き声に自身の旋律を重ねる。森は普段の穏やかさをすっかり取り戻していた。 先日見たあの謎の黒い獣にも、あれきり会っていない。 会っていないどころか、あの場所にすら行っていない。怖いから。 それにきっともう会うこともないだろう。 なぜなら今日は私の18歳の誕生日。 ずっと昔から決めていたことを実行する日だ。 私は、今日、この森を出て旅に出る。 いつもは使わない魔法を使い、洗濯物を乾燥させてから早歩きで家に戻った。 前日に用意していた荷物を持って家を出る。 ばいばいマイハウス……旅に満足したら戻ってくるからね……。 ほんの少しだけ名残惜しい顔をして振り返り、踏み慣れた獣道を歩く。 森の終わりが見えてきて、また少しだけ後ろを見た。 決して短くなかったこの森での生活だけど、案外楽しかったなぁ……。 沈む気持ちを振り払うように両の頬を叩く。 よし!私の旅の第一歩を踏み出すんだ! と意気揚々と一歩を踏み出そうとした。 そのとき、かさりと音を立てて道の脇にある茂みが少し揺れる。 びくっとして音の方向を見ると、指が出ていた。 そう、人間の指が。 「うわぁーっ!?」 びっくりして後ずさる。 じゃり、と地面から音がして靴の跡が付く。 その音に目の前の手が反応した。 死体じゃない。生きている。 分かった瞬間体が動いた。 「大丈夫ですか!?」 咄嗟に膝をついて茂みをかき分けると、その手の持ち主の上半身が露わになる。 そこには兎のような耳を持つ、黒髪の男性が倒れていた。 うつぶせになっていた彼がゆっくりと顔を横に向けて、目線をこちらに向けてぽつりと、 「……水」 と言った。 彼の前髪から覗く赤い目が揺れている。 脱水でも起こしているのだろうかと慌てて腰につけていた水袋を外し、彼の口元に差し出す。 一口めはそのまま飲んだがやはり飲みづらかったのか、体をゆっくり起こして私の手から水袋を受け取った。 二口、と彼の喉が動く。 動けるまで回復して安心したら、今度は彼の詳細な情報が脳で処理されてきた。 大きな長い耳。濡れ羽色の髪の毛は、正面から見て右側だけ、鬢髪が肩まで伸びていた。 長い睫毛の隙間から見える純度の高いルビーのような瞳に、縦に長い黒の瞳孔。 すらりと通った鼻、薄い唇、しっかりと鍛えられたように見える体。 目の前の獣人を構成する要素全てが、世界から入り離されたように完璧だった。 「……何か、変か」 彼が水袋から口を離してぽつりと呟く。 「あっいえすみません。そういうわけじゃ……」 慌てて答えた。不躾に見てしまい、気を悪くさせたのではないかと不安になる。 「ならいい。……水、助かった」 しかし、返ってきた言葉は随分柔らかかった。 怒られなくてよかった。と内心ほっとして彼から水袋を受け取る。 それを腰に戻して視線を戻すと、彼がじっと私を見ていた。 なんですか?と聞こうとしたが、先にじろじろ見たのは私の方だったので何も言えない。 「その、もう大丈夫ですか?」 「……ん。問題ない」 彼はそう答えると茂みから全身を出して、緩く緩慢な動きで立ち上がった。 でかい。この獣人、兎なのにでかいな……。 小動物の獣人とは思えない大きさに驚きを隠せないまま見上げる。