プロローグ:sideムルア

艶やかな黒毛。鱗の付いた手足と、巨大な翼にピンと立った長い耳。 夕日の差し込む森林の中で、全長優に20メートルはあるであろう異質な生物を見た。 その下に敷かれている草花はじんわりと暗く色を変えて、鉄錆のような臭いを漂わせる。 一歩足を踏み出すと、燃え上がるような鋭い赤の瞳がこちらを貫く。 背中を冷たい汗が伝い、足が動かなくなる。 でもここで見捨てる選択肢は、ない。 そう思って、持っていた手提げ籠に手を入れて__ 瞼の上に乗る静かな淡い光。 それとは対照的に鳥の高い鳴き声が聞こえて、私は横向きに寝返った。 このままもう一度眠ろうかな……なんて考えてみたり。 ……いややっぱ起きよう……。 だらけた頭に鞭を打ち、苦々しいうめき声を漏らしながら、ようやく体を起こす。 その時、ベッドについた自分の手の甲に大きなひっかき傷が目に入り、小さくため息を吐いた。 「アレ」は夢じゃなかったんだ。 鏡も見ずに髪を手櫛で雑に整え、昨日と同じ手提げ籠の中に水筒と使わなくなった布、薬草。それと多めのパンを入れる。 急がなくてもいいはずなのに、はやる気持ちを抑えられず、ばたばたと慌ただしく玄関の扉を開けて、鍵も閉めずに目の前の森林へ駆け出した。 人の気配が全く無いいつもの森を、できる限りの全力で走る。 昨日見た真っ黒な獣がいた場所まではまだ距離があるはずなのに、肌にまとわりつくような圧迫感がここまで滲み出ていた。 空気が肺に絡みつき、呼吸が乱れる。走る速度が少しずつ落ちていく。 それでも、無理やり足を前へと運ぶ。 ひたすら進み、鳥や魚も姿を見せなくなった頃、ようやく黒い塊が視界に写った。 走りから歩きに変えてゆっくりと慎重に近付く。 昨日感じたあの恐怖を思い出して傷のついた手の甲が少し痒くなる。 走ったことによる息切れと緊張を必死に押し殺す。 呼吸を浅くして物陰に身を押し込み目を凝らして覗き見ると、黒い塊は静かに寝息を立てていた。 強張っていた肩から力が抜ける。 この獣と対峙したのがキノコ狩りの帰りでよかった。 たまたま「ネムクナルダケ」を持ってたから咄嗟に投げてみたんだけど、効力は抜群みたい。 ……まぁ眠って倒れてきた巨体を避けきれなくて、手の甲に傷はできたわけだけど…… それでも、あんな傷を見て、何もせずにいられるほど__私は“まとも”じゃない。 頭を振って思考を散らす。 今はそんなことを考えている場合ではない。 目の前の獣が眠っている間に手当を済ませようと、近付いて傷口の状態を観察する。 一番大きな傷は羽の付け根。そこが深く切り裂かれていて薄らと骨が見えていた。 とても痛そう……これじゃあうまく飛ぶなんてできっこない。 黒い体毛を掴み大きな体に足をかけてよじ登る。 傷口に近付くにつれて血の匂いが鼻を突く。思わず顔を顰めた。 虫が集っている様子が無いことに安心しながら傷口を洗うために水筒の蓋を取る。 中の水を傷にかけると下から小さく唸るような声が聞こえて思わず動きをピタリと止める。 獣は唸っただけで起きてはいないようだ。 起きないうちに他の傷も急いで手当てしよう…… 簡易的だけど、やらないよりずっとマシだ。 羽の傷を洗い流し、痛み止めの薬草の汁を絞って上から布で縛る。 黒い体に白い布は目立つが仕方がない。 体の上部の手当てが終わったら残りは下の方。 こっちは上に比べて目立った外傷は無いが丁寧に傷口を探して治療していく。 水が尽きたら近くの川へ汲みに走る。 最後に顔周りを綺麗にしよう、と獣の顔正面に回った。水で濡らした布を獣の頬に当てる。 にしても見たことが無い顔だ。鋭い牙に短い角。そしてなんといっても特徴的なのはこの大きな耳だ。 顔を上げて獣の頭部を見る。 昨日見たときはツンと立っていたが、今は重そうにくたりと垂れ下がっている。 それに、一匹というのも違和感がある。 単独行動なんてよっぽど力に自信があるのか、それとも…… 上げればきりが無いがとにかく手当を終わらせてさっさと帰ろうと、上げていた顔を戻し獣の正面を向いた。 赤いガラスのような瞳と細くなった真っ黒な瞳孔が目に入る。 「……」 「……」 世界の音が消える。 目の前の赤だけが、異様なほど鮮明に焼き付く。 __目が、合っている。 その事実に気付いた瞬間、脳が警鐘を鳴らす。 肌が粟粒立って脳天が冷える感覚と共に全身から力が抜ける。 握力の無くなった手から血痕の付いた布が滑り落ちる様子を、獣の瞳が追った。 「あーーーーーーーーっ!!」 大きな声を出す。 目の前の獣がびくりと震えて困惑したような表情で私を見下ろす。 何で叫んだか? ……わかんない! だってこんな大きな獣! 襲われたらひとたまりも無いじゃん! 声を上げたおかげか地面を踏みしめる感覚が戻る。 思わず地面に落ちた布を拾ってバッと立ち上がると獣の鼻先に投げつけた。 ンギュ、と獣の喉元から響くような低音が聞こえる。 その音を皮切りに、土を蹴って獣から逃げた。 まさか、まさかまさかまさか! 風を切る音が鼓膜を震わす。心拍が跳ねあがって足が勝手に動く。 起きるなんて、思ってなかった!! えーんと半泣きになる。 オレンジ色の夕日に照らされた森を駆けて自宅に直帰した。 ぜぇ、はぁ……と肩を大きく動かして肺に空気を取り込む。 暫くしてドアスコープから外を見る。何も追って来ていない。 ゆっくりと力なく玄関ドアに倒れこむ。安心したら次は別の物に対して怒りが湧いてきた。 今日の夕飯はネムクナルダケにしよう。 __効力はあまり信用できそうにないけど。